ミャンマーの最大都市ヤンゴン、にぎわうダウンタウンの一角には、仏教、イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、道教などの宗教施設がひしめき合っている。だが、そこにユダヤ教の会堂、シナゴーグも同居していることをご存じだろうか。
「ムシュメア・ヤシュア・シナゴーグ」、ミャンマー唯一のシナゴーグだ。荘重な鉄の門をくぐって中に入ると、ヤンゴンの喧騒が消え、熱帯の蒸し暑さが和らいだ。クリーム色の柱がそびえ、えんじ色の布で覆われた祭壇が鎮座している。
「今ミャンマーに住んでいるユダヤ人は8家族の20人です。昔は3000人いましたが」。そう語るのは中東風の顔立ちの女性、カーニ・サミュエルさんだ。弟の、サミー・サミュエルさんも、「私たちの曽祖父は、イラクのバグダッドからヤンゴンに移住してきて、英植民地時代の1854年にこのシナゴーグを建てました」と教えてくれた。代々シナゴーグを守ってきた彼らの一家は、今ではミャンマーのユダヤ人のリーダー的存在。そんな二人に、20人の極小コミュニティの生態を聞いた。
なぜミャンマーにユダヤ人?
ミャンマーのユダヤ人の歴史を教えてくれたのはカーニさん。そもそも、ユダヤ人がミャンマーを訪れたのは19世紀半ばに始まるイギリス植民地時代だ。海外に開かれたこの国にイランやイラクから多くのユダヤ人が移住し、貿易で成功した。彼女の曽祖父もその一人だ。
当時ユダヤ人が使っていた建物は、今でもヤンゴンの各所に残っているという。「コカ・コーラをミャンマーに初めて持ってきたのはユダヤ人なんだよ」とサミーさんも誇らしげだ。だが、3000人に上ったユダヤ人人口は、減少の一歩をたどる。第二次世界大戦中、日本軍の占領で脱出を余儀なくされ500人に減った。さらに、1962年、ネウィン政権の会社の国有化政策で財産を奪われ、70人に減った。
ミャンマーに留まった20人は今
その後の50年で20人にまで縮小してしまったユダヤ人社会だが、仏教徒が90パーセントを占めるミャンマーの地で生きづらくはないのだろうか。「我々ユダヤ人はミャンマーの社会で非常にうまくやっているよ」とサミーさん。
彼らの多くは普段、商店を営みながら、他のミャンマー人と同様に生活している。サミーさんは、「私たちは自分のことをミャンマー人だと思っているよ。ミャンマー料理を食べ、ミャンマーの学校に行き、ミャンマーの服を着ている」。日常会話もミャンマー語だ。20人のうち、ユダヤ人国家イスラエルの公用語、ヘブライ語を話せるのは、サミーさんだけだという。
ただし、結婚相手はユダヤ人同士が原則となる。例外的に異教徒と結婚した場合は生まれた子どもに宗教を選ばせる。また、死後は、ユダヤ人が独自に運営する墓地に埋葬されるそうだ。
シナゴーグの周辺はイスラム教徒が多く住むインド人街。近隣住民との関係を尋ねると、「彼らとは仲がいい。ユダヤ人国家イスラエルでは、ユダヤ人以外はシナゴーグに入れないだろう?でも、ここヤンゴンのシナゴーグは誰でも入っていいんだ」、とのこと。実際に、このシナゴーグは平日の9時30分から13時ごろまで一般に開放されている。昼下がりには、近所の仏教徒やイスラム教徒など様々な人がふらりと立ち寄り、用を足したり水を飲んだりしては帰っていく。すっかり街中に溶け込んでいる様子だ。
外に開かれた極小コミュニティ
観光客も毎日60人程訪れ、静かに内部を見学して帰っていく。サミーさん曰く、「もちろん海外のユダヤ人観光客も多いけど、ミャンマー人もたくさん来てくれるよ」。
若いミャンマー人との交流も欠かせない。ミャンマー人の学生をシナゴーグに招き、ミャンマーのユダヤ人の歴史を解説して、見学してもらう。さらに、ユダヤ人同士のネットワークを活かして、ミャンマー人大学生向けにイスラエルのスタディツアーを提供している。「みんな、素晴らしい体験をした、と語ってくれる」、とサミーさんもうれしそうだ。
そんなシナゴーグの目玉は、年に4度のユダヤ教の祭り。例えば2018年9月にはヨム・キプール、12月にはハヌカと呼ばれる祭りが控えている。この期間には、20人のユダヤ人全員がシナゴーグに集うほか、ビジネス等でミャンマーに一時滞在する約150人のユダヤ人も集まってくる。さらには、近隣のムスリム、仏教徒、華僑、ヒンドゥー教徒など多様な人々のリーダーをシナゴーグに招き、ダウンタウンを盛り上げるそうだ。
「私たちは代々、シナゴーグを開放的な空間にしようと努めてきたんだ」と、サミーさんは語る。ミャンマーで4世代を生き抜いてきたサミュエル一家の、シナゴーグ運営の理念だ。その言葉からは、たとえ20人になっても脈々と生き続ける、ミャンマーのユダヤ人の強さが伝わってきた。
話し手:サミー・サミュエル(38歳) ビジネス:旅行代理店、イスラエル・中東料理屋 世帯人数:4人(母、姉妹(2人)) |